どうもでございます。
ばすてい(@morosaredo)です。
西日暮里歴史散歩。前回はこちら(前回の記事を読まなくてもこの記事は読めるようになっています)。
西日暮里駅周辺は昔、風光明媚な観光地だった
時代を遡り、江戸時代。
鉄道が通る前の西日暮里は一体どんな場所だったのか。
道灌山通りから高架橋沿いに歩いてみます。
特に何も考えずテキトーに歩いていたのですが、高架橋の下に入れるトンネルを発見。見たところ駐輪場のようです。
気付いたら入ってました。トンネルって無意味に入りたくなりますよね。
当初の予定ではまた道灌山通りに戻って駅の反対側に行く予定だったのですが、もうそんなの知ったことじゃありません。知的好奇心が私の脳を完全に支配しています。
この先、行き止まりになっているのか、あるいはどこかに繋がっているのか……?
時間ないんだけどなーと思いつつ、ドーパミンどばどば状態で先へ先へと進んでみると……
なんと運よく駅の反対側に出ることができました。やっぴー。
線路が真横にあり、電車が目の前を大迫力で走っている光景も見ることができました。こりゃいいね~。
さらに階段をのぼっていきます。
そして現れたのが諏方神社。
これまた偶然にも、ちょうど今から向かおうとしていた場所です。
1205年(元久2年)創立で、1635年(寛永12年)にこの場所に遷座されたと言われています。1635年(寛永12年)というと、徳川家康の孫である3代将軍・徳川家光の時代です。
そんな大昔から総鎮守として信仰されてきた神社が、変わらず今もこの地に残っているのです。
今のぼってきた階段は「地蔵坂」という史跡であり、1635年(寛永12年)の遷座から変わらず同じ場所にあるそうです。
こちら1932年(昭和7年)の地図。この記号はおそらく階段だと思います。
たぶんだけど、今みたいに階段が途中で直角に曲がるような作りになったのは、ここに鉄道が通った1883年(明治16年)以後なのだと思います。
こんな変な形にする意味がないですからね。
いつからこういう形の階段になったのか、これ以前の地図を見てみても判然としなかったため、今後もう少し調べてみようと思います。
こちらが1850年(嘉永3年)頃に歌川広重によって描かれた、諏方神社境内と地蔵坂。
鉄道が通る前の時代まで、この諏訪神社の境内は絶景スポットとして人気の場所でした。絵に描かれている通り、崖下には一面に広がる田んぼ、遠くには茨城県の筑波山、そしてたくさんの人が景色を楽しみながら談笑しています。
もともと「新堀(にっぽり)」という地名だったこの地域は、「日が暮れるのも忘れる風光明媚な里」という意味で「日暮里(にっぽり)」という字が使われるようになります。
絵画と現在の比較。木が生い茂っており、あまりよく見えませんね。
もっと崖の近くまで行ってみましょう。
現在の景色はこんな感じ。
奥にはビル群が連なり、崖下では電車や新幹線がひっきりなしに通過しています。江戸時代までは自然の絶景スポットとして知られていたこの場所は、今では鉄道の絶景スポットとして人気を集めています。
説明看板がありました。
諏方神社のあるこの高台は、諏方台地と呼ばれる台地です。土器投げという野蛮な遊びも流行っていたみたいです。危なすぎるだろ。
境内にはこのような建物が。なんだろうと思い近づいてみると、
このような案内看板が。
この建物の中には1860年(安政7年)頃に作られた源為朝(みなもとのためとも)の人形が保存されているとのこと。
人形はもともと山車(“だし”と読む。形はおみこしと似ているが、担ぐのではなく引っ張りながら移動する)に付いていたものだそうです。
その山車は江戸でも有名かつ格式高いものであり、お祭りの際は牛や子どもたちが江戸中を引っ張り歩いたそうです。しかし、大正時代頃になると街に電線が張り巡らされたことなどによりそれが不可能となり、山車から取り外された人形は倉庫の奥でボロボロになって保管されていたようです。
その後きれいに修復し、このように大切に保管されているとのこと。調べてみたところ、元日やお祭りの日には一般公開されることもあるようです。
さて、参拝の前に手水舎(ちょうずや)で手を清めます。
実を言うと、カメラを持っている都合上 本当は手を濡らしたくないのですが、やっておいたほうがいいのはたしかなのでいつもやっています。ましてや記事撮影ですからね。自分が”記事撮影をさせていただいている身”であるということを意識しながら、敬意を払う必要があると思っています。
こんな張り紙がありました。近づくとセンサーが感知して自動で水が出るそうです。
指示通り手をかざすと、龍の口から水が出てきました(写真左端)。
必要な時だけ水を出すスタイルみたいです。水道代も水資源も節約しており素晴らしいですね。
こちらが拝殿。第二次世界大戦の空襲で被災し、1957年に再建されたものだそうです。
古くからこの地の総鎮守として信仰され、人々が手を合わし続けてきた諏方神社。今でもこのように立派な拝殿が建てられています。
手前には狛犬。後ろにのけぞったような独特な体勢ですね。強そうですが、可愛くも感じられます。
そして、境内で特に異彩を放っていたのがこの建物。
この重厚感のある扉と荘厳な造りの屋根。特に案内看板が見当たらなかったのですが、調べてみたところこれは神輿(みこし)庫のようです。
お祭りで山車を引っ張ることはなくなりましたが、現在は神輿を担いで町内を回っているそうです。その神輿の保管庫です。
手前には“れ組”と彫られた台座の上に狛犬がおりますが、これは江戸時代に町火消から奉納されたものだと言われています。
江戸では火事が起きた際、町人によって結成された「いろは四八組」という消防団が消火活動を行っていました。地域によって“い組”、“ろ組”、“は組”等で区分されており、日暮里付近は“れ組”の管轄でした。
諏方神社から出ると、すぐ隣には浄光寺というお寺がありました。
神社の真横にお寺があるって、なんだその変な状況は!?と思ってしまいますが、明治時代までは一般的だったそうです。
元来、日本には”神仏習合”という文化があり、神も仏もあまり区別せず考えられてきました。そのため、神社の近くには神社を管理するお寺が建てられることが多かったのです。
そういったお寺は”別当寺”と呼ばれたそうです。つまり、この浄光寺は、諏訪神社の別当寺ということです。
今の私たちの感覚からすると、神社は神主さんが管理していて、お寺はお坊さんが管理しているまったくの別物という感覚がありますが、明治時代に神仏分離令が出されるまでは結構ごちゃ混ぜだったようです。
境内には2体の銅像が並んでいます。左は1809年(文化6年)に作られた地蔵菩薩像。
そして右は、江戸六地蔵の3番目である地蔵菩薩像。
と、案内看板に書いてあったわけですが、私はここである違和感を覚えました。
私の知っている江戸六地蔵は品川、浅草、新宿、巣鴨、江東区白河、江東区富岡にあって日暮里にはないはずです。
大学でそう学んだ記憶があります。テストを受けて単位を取得できたので、しっかり記憶しているはずなのですが、記憶違いでしょうか。しかも大学1年生のときに取った授業ですので、去年の話ですからね。
おかしいな~、また大学1年生からやり直しかな~なんて思っていたら、衝撃の事実が発覚。
この案内看板をよく見ると、“江戸東部六地蔵”と書かれています。
実は、江戸六地蔵が作られる17年前、1691年(元禄4年)頃に江戸の東部に東部六地蔵が作られていたそうです。うーん、知りませんでした……。たぶん講義で説明されたはずですので、聞いていなかったのだと思います。大学1年生からやり直します。
江戸六地蔵というのは、その名の通り江戸の6ケ所に作られた地蔵のことです。ほとんど山手線の沿線にあるため一日で簡単に巡れます。
今度そういう記事も書いてみたいものですね。
夕陽と富士見坂
浄光寺を出て、すぐ近くにある「富士見坂」に来ました。
関東各地に「富士見坂」という坂はありますが、そのほとんどが都市化によるビルの建設で眺望を遮られ、富士山が見えない状態になってしまっています。
そんななか、昔から都内にある富士見坂のうち唯一、まだ富士山を望むことができるのがこの日暮里の富士見坂…
だったのですが、2013年(平成25年)にマンションが建設されて見えなくなりました。
今でも見えるかのような空気感を出してすみません。
写真中央、左側のビルあたりに見えたらしいです。夕暮れに富士山のシルエットが浮かび上がっている在りし日の姿を想像しながら、目の前の坂道を眺めました。
案内看板にはシールが貼られて、説明が書き加えられていました。
地元住民の方はマンションの建設に反対して「日暮里富士見坂を守る会」を結成し、建築主との話し合いや区長への嘆願を行い続けたそうです。地元の方々はきっと悔しくやるせない思いでこの坂を通っていることと思います。
そういった背景を意識すると、この風景からより強く「富士山文化」を感じることができる気がしました。
失ったからこそ感じる富士山の存在感と、人々の富士山への愛情です。
という感じ
というわけで今回は西日暮里駅周辺をぶらりと歴史散歩してみました。
午後2時に撮影が終わると想定していたのですが、気付いたら夕方になってました。西日暮里、あちこちに歴史的遺構が残っていて面白いです。
駅前の再開発が2024年から始まるので、それまでにもう一度散策をしたいと思っています。
ではまた。
今回の散歩ルート
↓
歴史散歩の難点は、何もない壁や地面を撮りまくるせいで職質される点です。