どうもでございます。
ばすてい(@morosaredo)です。
現在私がおりますのは、東京都荒川区にあるJR西日暮里駅です。
山手線の田端駅と日暮里駅の間にあり、山手線、京浜東北線、東京メトロ千代田線が乗り入れています。
しかしまぁ、昔から西日暮里駅っていまいちパッとしない印象があります。
隣の田端駅周辺は色々な鉄道関連の遺構があって面白いし、もう一方の隣駅である日暮里駅周辺は昔ながらの谷中銀座商店街があったり、京成電鉄や常磐線の電車に乗り換えるのによく利用しています。
西日暮里は「何があるのかよくわからない、いつも通過する駅」という認識でした。
あと、たぶんなんかポリポリしてるんだろうなとも思ってました。
おそらく同じような印象を抱いている方もいらっしゃると思いますが、そんなイメージを覆すべく、今回は西日暮里駅周辺を歴史散歩してみたいと思います。
「高輪ゲートウェイ駅」に次いで、山手線で2番目に新しいのが「西日暮里駅」
ひとまず駅を出ましょう。
西日暮里駅は高架駅ですので、エスカレーターで地上階へ下ります。
さて、地上階に降りてきましたが、目の前に現れたのは改札ではなく大きな階段です。
下りの階段と上りの階段があり、下が東京メトロ千代田線ホーム、上が先ほどまで私のいたJR山手線と京浜東北線ホームに繋がっています。
改札はというと、右の端のほうに1箇所あるだけです。
そう、西日暮里駅は基本的に、JR(山手線、京浜東北線)と東京メトロ(千代田線)の乗り換えのために利用されることが多い「乗り換え駅」なのです。
ですので、出入口の改札よりも乗り換え改札へ行く階段のほうが幅をとっているというわけです。
JR西日暮里駅は山手線のなかだと非常に新しく、1971年(昭和46年)に開業しました。
地下の東京メトロ西日暮里駅はその2年前、1969年(昭和44年)に開業しています。
JR(当時の国鉄)よりも先に、東京メトロ(当時の営団地下鉄)が駅を作ったということです。
国鉄が後から駅を作ったという、非常に珍しいケースです。
1970年(昭和45年)の営団地下鉄 西日暮里駅出入口(引用 : メトロアーカイブアルバム公式サイト)
高度経済成長期の当時、東京で働く人の数は年々増え、それと同時に地方から東京近郊に移住してくる人の数も爆発的に増加しました。
そこで、北千住~大手町を繋ぐ千代田線が計画されます。
その途中のどこかに国鉄路線と乗り換えができる駅を作ろうということになり、西日暮里駅が作られたというわけです。
駅の場所は、この近辺で最も主要な道路である「道灌山(どうかんやま)通り」と国鉄の線路が交差するこの地点が選ばれました。
この地点からいちばん近い日暮里駅の下に新駅を作る案も出ましたが、駅付近が住宅などの民地であるため買収が困難なことが予想されたため不採用。
というわけで場所はもうここしかないなとなったわけですが、ここには国鉄の駅はありませんよね。
というわけで営団は、国鉄に新駅を作ってもらうことにします。
国鉄としては何言ってんだよという感じだと思いますけどね。あなたたちが新しい路線を作りたいんだったらあなたたちが頑張りなさいよ、と、普通だったらそう思いますよね。
これにはさすがの国鉄もブチギレです。
いいんだ。
国鉄は利益を出すことを第一とした民間企業ではなく、国営の会社ですので、千代田線敷設に協力するため新駅を設置することにしました。
しかし、国営とはいえその当時国鉄は赤字が膨れ上がっており、余裕はまったくなかったのですが、どうにか頑張ってくれたみたいです。
そういう経緯があって無理矢理うまれた駅ですので、駅間距離が非常に短くなっています。
西日暮里駅と日暮里駅の間は0.5km、わずか500mほどしかなく、山手線で最も近い距離にある駅です。
こんな感じで、西日暮里駅のホームから日暮里駅が見えてしまいます。
また、西日暮里駅は2020年に開業した「高輪ゲートウェイ駅」に次いで2番目に新しい山手線駅でもあります。戦後初の山手線駅なのです。
ちなみに3番目に新しい駅は日暮里駅。1931年(昭和6年)に作られました。後から作られた駅がふたつ並んでいるということもあって、駅間距離が短くなってしまっているのですね。
比較的新しめの駅である「西日暮里駅」。
しかし、実は近くにとある歴史的遺構が隠されています。
駅を出て、散策に行ってみたいと思います。
東北と関東を繋いでいた貨物線
JR西日暮里駅が開業した当時の様子がわかる動画です。
映像内でも紹介されている通り、当時ここには貨物列車が走る線路が一本敷かれていました。
この貨物線は青森駅から秋葉原駅まで続いており、東北で取れた物資などを関東に届けるための重要な路線でした。
1980年頃には廃止されていたようなので、半世紀近く前に存在した大変古い路線ということになります。
そんな大昔の線路の痕跡が、実は今でも少しだけ残っています。
改札を出て、高架下の道灌山通りに来ました。
巨大な高架橋の下なので、薄暗くて独特な空気が漂っています。
そしてそのまま後ろ歩きで高架の外まで来ました。
この赤い線を書いたところが、貨物線のあったところです。この道灌山通りにかつて踏切があり、高架橋に沿って貨物列車用の線路が続いていました。
では、その痕跡を見ていきましょう。
痕跡その1。
高架橋の隣にあるこちらの奇抜な建物。ふもとをよく見てみると、
角のところに何やら埋まっていますね。
側面に「工」と書いてあります。これは、これより先がJRの土地であることを示す石杭です。
この石杭がいつ設置されたのかは定かではありませんが、おそらく国鉄時代に設置されたものだと思われます。
「工」という文字は、日本初の鉄道路線である「新橋~横浜」間の路線が開通する前年に設置された「工部省鉄道寮」という鉄道管理の官庁に由来します。
参考画像
最近では「JR」と書いた杭を設置することもあるそうですが、「工」の杭が新しく埋められることもあるそうですので、「工」の杭であれば国鉄以前に設置されたものであるというような断定はできません。
しかし、古地図などの情報と照らし合わせながら確認することで、その土地の歴史を推測・判断することができます。
さきほどの空撮映像でバッチリ映っていたので明らかではありますが、念のため昭和34年の地図を確認してみたところ、やはりこの場所にはもともと貨物線が通っていたようです。
つまり、この建物がある場所はもともと国鉄の貨物線路があった場所だが、廃線になり、国鉄が展開する不動産業の一環として貸し出された土地であると、そういうことになります。
高架橋に沿って、細長い土地に一列に並んでいる建物……。
どう考えても線路跡に建ててるねぇコレェ!!!!!!
先へ進んでみると、ここにも石杭がありました。これは間違いなく線路跡地ですね。いえーい。
もう満足した感はありますが、まだもう一つ廃線跡を感じられるポイントがありますので、そちらも見てみましょう。
先ほどの地点に戻ってきました。では、道灌山通りを渡った写真右側はどのように続いているのでしょうか?
こんな感じになっています。こちらも同様に高架橋の隣にある建物が線路跡の上に建っているわけですが、
映像と古地図によると、道灌山通りを渡ってすぐにトンネルに入ることになっています。
今でもそのトンネルは残っているのか、確認してみます。
「さくら水産」というお店に沿って歩いていくと……
あ!
何やら壁を埋め立てた跡があります。というわけでこれが痕跡その2、トンネル跡です。
これに関してはあくまで推測の域を出ませんが、映像を見る限り位置も間違いなさそうなので、おそらく合っていると思います。
このトンネルを抜けて田端駅へと伸びた線路は、最終的に青森まで繋がっていたと考えると、なんだかすごい場所のように思えてきますね。
今は無き、半世紀以上前に東北と関東を繋いだ貨物路線。その面影を、廃線から半世紀近く経った今でも感じることができるのです。
ちなみにですが、この一帯は2024年から再開発の工事が始まることが決定しており、2029年に巨大な商業ビルがオープンする予定です。
あと1年もしないうちに失われてしまう景色と考えると、より大切に眺めようという気になります。