【取り壊し】1929年架橋、太宰治お気に入りの鉄橋「三鷹跨線橋」を見に行く

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どうもでございます。

ばすてい(@morosaredo)です。


2023年12月、東京都三鷹市にある人道跨線橋(じんどうこせんきょう)の取り壊し工事が開始しました。人道跨線橋とは、線路の上にまたがる歩道橋のこと。


これが結構大きなニュースになりまして、私も取り壊し直前に駆け付けることにしました。

三鷹人道跨線橋。これがなんと、今から約100年前1929年に架けられた橋で、しかも文豪・太宰治のお気に入りの場所だったのです。


今回はたくさんの写真とともに、偉大な歴史遺産としての「三鷹人道跨線橋」の最後の姿をお届けいたします。


見にきた

というわけで来ました。東京都三鷹市。JR東日本 中央線の三鷹駅─武蔵境駅間にあります。

ところどころ小さく崩れているコンクリ階段に、錆び錆びスカスカの手すり。時代を感じます。


三鷹人道跨線橋とは

1929年(昭和4年)架橋。全長93m、横幅約3m。高さは5mほど。

見ての通り、橋の先は住宅街になっています。


三鷹人道跨線橋は、1929年(昭和4年)に三鷹電車庫(現・三鷹車両センター)が作られた際に併せて架けられたそうです。こんなに広い土地にたくさんの線路を敷いたら、反対側へ行くのが大変になってしまいますからね。


こちらは、1927年(昭和2年)~1929年(昭和4年)8月までの間に作成された地図。まだ三鷹跨線橋はありませんね。辺り一帯桑畑。


こちらはその約8年後、1936年(昭和11年)の航空写真。三鷹電車庫と人道橋が完成しており、電車庫の周りにはちらほらと家が建ち始めています。


そしてこちらが、その約10年後の1945年(昭和20年)~1947年(昭和22年)までの間に作成された地図。橋の南側(下側)一帯は住宅街に変わっています。


車庫と橋ができたから家が建った、というよりも、宅地開発の機運が高まっていた時期に鉄道省(現・JR)が車庫の用地を買い、その後すぐに付近に家が建っていった、という感じな気がしますね。


太宰治と「三鷹人道跨線橋」

橋の下にはこんな案内パネルが設置されていました。ひび割れまくっていてキモイですね。

ヒビはともかく内容を見てみると、太宰治がこの跨線橋を愛し、友人をこの跨線橋に案内することもあったということが書かれています。太宰治は三鷹に住居と仕事部屋を構え、晩年を過ごしました。

太宰治が階段を降りている写真も大きく載せてあります。


真似してみた。


渡ってみる

現在いるのは線路の南側。階段は2つあるみたいなので、裏の階段も見に行ってみます。


階段の下はこんな感じ。架橋当時は鉄不足だったので、古い鉄道レールを柱に再利用しているのがわかります。そして石交じりのコンクリート階段も、横から見るとかなり薄いです。


さて、それではいよいよ渡ってみます。


階段の下には何故かベビーカーがありました。ベビーカーを乗り捨てる、相当ワイルドな赤ん坊が三鷹にいるようです。


手すりの下の方に金網が後付けされていますが、太宰治の写真を見るともともとは真ん中に一本横向きの柱があったようです。しかしこれだと、小さな子どもがちょっと身を乗り出したら確実に落ちます。安全のために、真ん中の柱を外して金網をつける改修を行ったようです。


一段一段が低いのが特徴的。土地を贅沢につかっていますね。


何度か塗り替えをしているのでしょうが、所々塗装が剥げてかなり錆びています。


上り切りました。正面に見えるのは三鷹駅方面。


後ろを振り返るとこんな感じ。


端のほうが一部崩落していました。「このはし渡るべからず」と書いておいたら、一休さんを罠にはめることができますね。


橋の上。上部に柱がありますが、本数が少ないので開放的な印象です。

今は側面に金網が貼られていますが、昭和初期は柱だけだったそうです。景色は見やすいと思いますが、結構怖いですね。


ここでも柱の古レールを近くで見ることができます。この辺は手すりと違って塗り替えがしづらいからか、塗装が剥げまくっています。


橋の下にはJRの建物。こちらもかなり傷んできている様子です。


その少し先の三鷹車両センターには、中央線で活躍する列車がズラリ。


ちなみに、三鷹車両センター所属の車両には、「八ミツ」(はちみつ)と書かれています。

これは、当センターが八王子支社であるため「八」、三鷹車庫であるため三鷹を表す「ミツ」、と、奇跡的に生まれた略号です。ハチミツ。


柱はもちろん溶接ではなくリベット打ち。今では当たり前のように橋の架橋工事に溶接技術が用いられますが、当時はリベット打ちが基本でした。


↑細かいことはこちらの記事でご紹介していますのでぜひ。


天井部の柱には、円形の土台のようなものが。ここには、日本初の直径1mの電気式時計が設置されていたそうです。比較的最近まであったようですが、安全性の問題からか2019年前後に撤去されたようです。


線路の反対側まで来ました。こっちは塗り直しがされてからそれほど月日が経っていないようで、鮮やかなエメラルドグリーン色をしています。一見、新しい橋のようにも見えるほどです。


しかし柱をよく見ると、古い鉄道レールの断面であることがわかります。


さらに注目すると、このレールが1911年に作られたことを示す「1911」という数字の刻印も確認できます。


併せて、1883年から1919年頃イングランドに存在した機関車・路面電車製造会社“デッカー社”の社名も刻印されています。

このレールはドイツのカイザー社がデッカー社のサンドバーグ法という技術を用いて造ったレールと言われています。


サンドバーグ法。摩耗の激しい鉄道レールをより強固なものにするために、一定の温度まで熱したあと急速冷却する熱処理を繰り返し行うこと。サンドバーグ法によって作られたレールを”硬頭レール”といいます。


おわりに

取り壊しの理由は、想像通り老朽化のためだそうです。

橋を所有しているのはJR東日本。文化的価値があるため、なんとか保存する方法はないか三鷹市と話し合いを重ねたそうですが、やはり難しいとの結論に至りました。


そもそも、三鷹跨線橋は1929年当時の建築基準で作られているため、耐震強度が不十分なのです。維持費や改修費に莫大なお金がかかることが試算されたため、撤去という結果になってしまいました。


素晴らしき昭和の遺産がひとつまた消えてしまいました。しかし、まだまだ需要な歴史遺産はあちこちにたくさん隠れているはずです。いっぱい見て回ろう!


モボ・モガと言われる人や日本髪の人たちが歩いていた場所がほぼそのまま、実用的な形で残っていた。そしてそこを自分が歩いた。これは奇跡的なことだと感じます。


なんか直訳みたいな文になってしまった。

 



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プロフィール

2003年生まれの大学生。
初めての自炊でオムレツを作って食中毒になりました。

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