どうもでございます。
ばすてい(@morosaredo)です。
TOHOシネマズ日比谷に映画を観に行くついでに、東京を散策してきましたので、その様子を記事にしてみます。
東京って、文化の中心としての魅力や買い物の利便性にばかり目を取られてしまいがちですが、歴史をテーマにぶらぶらしてみるとすごく面白いんですよね。
映画が始まる3時頃まで、東京の歴史的な場所をのんびりと歩いてみたいと思います。

その前にまずは腹ごしらえ。
JR池袋駅構内の大江戸そば。
JR東日本の子会社が運営している立ち食い蕎麦屋さんです。

江戸時代に庶民に大流行した立ち食いそばを平らげます。
時代を巡る旅の幕開けという感じがしてワクワクしますね。
食事から、東京歴史観光のスタートです。
さぁ、池袋駅から有楽町線で飯田橋駅まで行き、東西線に乗り換えて日本橋駅に来ました。
どこに行くか、もうおわかりでしょう。

時刻はもう午後1時近く。
本来であればもっと早くに家を出て、あちこち歩き回るところなのですが、今回は完全に思い付きでミニ散策を始めましたので、太陽も昇りきっています。
この贅沢さが良いんです。

目的地を目指してふらふらと歩いていると、こんな場所を発見。
日本橋郵便局です。
一見、何の変哲もない郵便局ですが……

なんとここが郵便発祥の地とのこと。
郵便制度の創設者として有名な前島密の胸像が建っていました。
「郵便」「切手」「葉書」といった名称は、「日本近代郵便の父」である前島密によって定められたものです。
1871年4月20日(明治4年3月1日)、この場所に駅逓司(現在の総務省、日本郵政、日本電信電話の元となる機関)と郵便役所(現在の東京中央郵便局の前身)が日本で初めて設置されました。
道行く人は誰も足を止めていませんでしたが、ここはかなり凄い場所なのではないでしょうか。
文明開化を象徴する歴史的な出来事が、150年前にこの場所で起こったのです。

そして胸像の前に置かれた植木。
よく見てみると…

何やら面白いことが書いてありました。
どうやらこれは多羅葉(たらよう)の木と言うそう。
古代インドで手紙を書く際に、この木の葉っぱの裏を削って文字を書いていたとのこと。
「葉書」という言葉は、これが由来なんだそうです。
そういえば、たしかに「葉書」ってどうして”葉”という字が付くのか不思議でした。
葉っぱを1枚手に取って、爪で何か書いてみたかったのですが、まぁもちろんやりませんでしたよ。
どういう風に文字が写るんだろう……?

パネル展示もあり、なかなか楽しむことができました。
現在の日本橋郵便局の建物は、昭和期に建てられた5代目だそう。
歴代の建物の写真と絵が展示されています。
他にも、郵便配達員の制服の変遷や、前島密と切手についての解説パネルもありました。
写真を見ているだけでも、現在との違いを比較してみることができ、進化の様子を想像して楽しむことができました。

しっかりとした説明書きも

日本橋郵便局のすぐ傍に、江戸橋があったので渡ってみることに。

歌川広重「日本橋江戸ばし」(パブリックドメイン)
歌川広重の「名所江戸百景」にも登場します。
創架年代は定かではありませんが、可能性として最も古いのは1631年(寛永8年)頃とする説。
その後、1875年(明治8年)に石橋に建て替えられ、1901年(明治34年)に鉄橋へと改架されました。
1927年(昭和2年)、昭和通り開通に伴って位置を現在の場所にずらし、今日に至ります。

真上には首都高速道路江戸橋ジャンクションがあり、今もなお日本の交通において非常に重要な場所となっています。
隣にある日本橋のせいで全くスポットが当てられない不遇な橋ですが、400年近く前からある非常に歴史の深い橋なわけです。

ちなみに、下を流れる川は引くほど汚いです。

さぁ、もう言ってしまいましたが、私がまず初めに訪れたかったのはここ。
日本橋です。
1603年、江戸幕府が開かれると同時に架橋。
ご存知、日本の交通の中心であり、全ての道の起点でもあります。
日本中に広がる道路の始まりはココというわけです。

先述した日本初の郵便局や、紙幣を発行していることで有名な日本銀行など、国家の重要な建築物の多くはこの周辺に建てられていることからも、日本橋は交通のみならず国においても非常に重要視されていることがわかります。

すぐ傍には、日本の百貨店の始まりとされる日本橋三越本店のビルもあります。
1673年(延宝元年)に呉服店越後屋として創業。
時間が無くて寄ることができませんでしたが、店の歴史も古いうえに建物自体も国の指定重要文化財に指定されているなど、かなり面白いです。
また、余談ではありますが、日本で初めてディズニーランドが開園したのはここ、日本橋三越の屋上です。
1955年、ウォルトディズニーがカリフォルニアでディズニーランド第1号を開園したその2年後、三越もビルの屋上に「こどもの夢の国!楽しいディズニーランド」と称したテーマパークを期間限定で開園しました。
もちろんディズニー社の許可を得ているので、期間限定ではありますがこれが日本のディズニーランドの元祖ということになるわけであります。
そんな興味深い話がいくつもある三越本店ですので、いつか探索しに(もちろん買い物も…。高いだろうが…)行ってみたいと考えています。

日本橋のたもとには、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑があります。

現在は築地に移動されている魚市場は、もともとはここ日本橋にありました。
幕府に納めていた魚の余りを漁民がここで売りさばくようになり、近所には魚介類を出す食事処も増加。
それにより、現在”老舗”と言われている有名なお店が生まれたという経緯があります。
食文化においても、日本橋は重要なポイントとなっているのです。

案内看板の隣に階段があるが…

のぼっても何もない

それでは、日本橋を渡ってみます。
1911年に石橋に架け替えられ、今に至ります。
100年以上この地でこの姿を保ち続けているのです。

ちなみに、東京都墨田区にある「江戸東京博物館」では、石橋になる前の木造の日本橋が実物大で再現されており、実際に渡ることができます。
歴史博物館としては、おそらく国内最大級なのではないでしょうか。
縄文から昭和まで幅広い年代の、歴史的な価値のある展示物が物凄くたくさんあります。
日本橋から電車で15分程度なので、今と過去の日本橋の姿を比較して見てみるのも面白いかもしれません。

学生は格安で入場することができる。大人は600円。それでも安いほうだろう。

橋を渡ろうとすると獅子の銅像がお出迎え。
これは、橋のデザインを担当した妻木頼黄(つまき よりなか)の「西洋を意識した石橋にしつつ東洋的な要素も取り入れる」という考えによるものです。
前脚で押さえているのは東京市の紋章。
このマークは、現在でも東京都の紋章として使用されています。

このように、距離は短いですが横幅は結構あります。
橋を渡る際、多くの人が欄干の彫刻に目をやったり、写真撮影をしたりしており、日本橋の威厳を改めて感じました。
私も同じように、ワクワクしながら隅々を見て渡っていたのですが、

恐ろしい何かがこびりついていました。
(ちょっとアレすぎるため、画像に処理を施しました)
これ、GoogleやTwitterで検索しても一切情報が出てこないのですが、一体何なのでしょうか。
色々と調べてみましたが、どうやらこれは数日以内に付いた液体のようです。
日本橋は定期的に業者による清掃が行われているため、撮影日の翌日の日本橋の写真を見たところ、既にこの赤いシミは綺麗さっぱり消えていました。
実は、この謎の赤いシミを見つけた際、私はかなりビビッておりました。
というのも、100年間存在し続けている日本橋には、負の歴史の痕跡がいくつも残っているということを知っていたからです。

例えばこれ。
ただの黒いシミに見えますが、実はこれは焼夷弾の跡であると言われています。
他にも、石の表面が黄土色になっていたり、穴が開いていたりするなど、関東大震災や第二次世界大戦の痕跡が刻み込まれています。
立派な橋であるというだけでなく、歴史を伝える重要な橋でもあるというわけです。

また、歴史を伝えるといった点で言うと、銘板にある「日本橋」の文字は徳川15代将軍(最後の将軍)徳川慶喜が揮毫(きごう)したもの。
当時の東京市長の「江戸時代の面影を残したい」といった意見や、「江戸城を新政府軍に無血開城できたのは慶喜公の功績だ」といった考えから、揮毫を依頼したそうです。

橋を往復していると、欄干に何故か片足だけの靴下と1円玉2枚がセットで置いてあったり、

鳩が異様に集中している突起を発見することができました。
平和そのものだ。

そして、橋のすぐそばにはこんなオブジェが。


そう、これこそが、日本の道路の中心。
ここを起点に、北海道や沖縄へ全ての道路が広がっています。

日本橋や周辺地域についてあれこれ観察ができて、新たな発見、学びがあって非常に楽しめました。
それではしばらく歩いて、次の目的地へと向かってみましょう。
日本橋を離れ、三越の隣の道を歩いていきます。

少しすると、何やら格調高そうな建物が。

近くにあった案内地図を確認してみると、正体がわかりました。

これがあの日本銀行です。
国の中央銀行であり、紙幣の製造を行っている唯一の銀行であります。
設計を担当したのは、東京駅の設計で有名な辰野金吾(たつの きんご)。
国の重要文化財に指定されています。
日本で初めてシリーズで言うと、日本初のエレベーターはここ日本銀行本店に1896年に取り付けられました。

他にも、江戸時代に積み上げられたであろう石垣や、

「日本資本主義の父」渋沢栄一の銅像、

かなり古くからありそうな高架橋など、歴史をテーマにして歩いてみると、そこらじゅうに興味深いアレコレが溢れていたことに気が付きます。

他にも、「画鋲を踏んだ時の痛み」を巨人に味わわせるためのオブジェや

逆に巨人の足つぼを刺激して快感を与えるオブジェなど、普段は気付かないものがいくつもありました。
巨人自体にも気付いていないだけかもしれません。

その先には、何やら謎の像が。
大きく「絆」と書いてあります。

裏側を見ても、それ以外の情報は一切記されていません。
何なんだ。誰なんだ。

ただ、「嬉しいことがありました!」という顔をしていることだけはわかります。
突如として眼前に現れた「とんでもなく嬉しそうな顔の人」に軽く怯えていると、銅像のすぐ隣に案内板を発見しました。

どうやらこれは、箱根駅伝のランナーをかたどった像のよう。
一時期、この場所を箱根駅伝のスタート・ゴールの場所としていたことの記念だそうです。

失礼なことを言ってすみませんでした。

さぁ、しばらく歩いていると着きました。ここが第二の目的地です。
何故か異様に暗い写真になってしまいましたが、もしかしたら理由があるのかもしれません…。
ここは、「将門塚」。
平安時代の関東の豪族、平将門の首を祀る塚です。
この将門塚には、いくつもの奇怪な伝説が残されています。

平将門(パブリックドメイン)
遡ること約1000年前、平将門は関東の様々な地域を制圧し、自らを新しい天皇である「新皇」と名乗るようになります。
怒った天皇、及び朝廷(政府)は、平将門を国の敵と判断。やがて討伐されます。
遺体は、茨城県坂東市の延命院に埋葬されました。
その際、首だけは京都に運び、さらし首となったのですが…しかし…

首だけになった平将門は再戦を求め、何度も何度も叫び続けました。
これだけでも意味がわからない話ですが、それだけでは終わりません。




将門の生首は、自分の身体が埋められている関東まで空を飛んで向かったという伝説が残っています。

そしてその生首が落下した場所というのが、この場所なのであります。
そんな不思議な伝説がある将門塚ですが、それだけではありません。

関東大震災後、将門塚を取り壊して大蔵省庁舎の仮舎を建設した際、多数の関係者が亡くなったり、病気になったりするなど、良くないことが立て続けに起こりました。
すぐに仮舎は取り壊しに。
その後も撤去工事を行いますが、工事関係者が亡くなったり、首塚を取り壊して作られた銀行の従業員が複数人病気になったりするなど、不可解な現象が立て続けに発生しました。
ちなみに、その銀行はその後経営破綻し、今はもう存在しません。
そのため、移動工事などは一切行わず、今でも変わらずこの場所にあり続けています。

将門塚のすぐ隣には大手町駅の入り口。
大都心の、地価40億円ともいわれているこの場所に残され続けているのは、そういった理由があるわけです。
実際に敷地に入って塚と墓石に手を合わせましたが、歴史の壮大さが体を駆け巡り、身震いがしました。
「とんでもない人物の、とんでもない歴史がある塚にいる」という緊張感が空間を包んでいる感じです。
都心部なのにその一帯はやけに静かで、風の音だけが聞こえます。
塚の敷地には線香の匂いが漂っていました。
塚の写真もお見せしたいのですが、平将門さんとしても自分の墓の写真を撮られてネットにアップされるのは嫌だろうと考え、撮影はしませんでした。

さぁ、そんなわけでいかがでしたでしょうか。
歴史をテーマに東京都内を散策するミニ散歩。
この続きは「日比谷公園、東京駅編」として後日配信する予定です。
よろしければTwitterをフォローして更新報告を確認していただけると幸いです。
ではまた。
こんな記事もあります
コメント